【24年ドラフト選手の“家庭の事情”】#12 渡部聖弥 (西武2位・大商大・22歳・外野手) 【写真】破格の契約更改で西武・中村剛也と栗山巧は45歳まで安泰?背後に“厚遇せざるを得ない”切実な雇用問題 ◇ ◇ ◇ 「たぶんDNAの突然変異だと思うんですよ」 渡部の父・泰明(やすあき)さん(49)はそう言って笑う。泰明さんは小学3年から野球を始めたものの、中学校以降は「帰宅部」。母の知枝(としえ)さん(48)も小学生の頃に陸上や水泳を経験したことがあるくらいで、スポーツにはあまり縁がなかった。 「妻は足が速かったし、運動神経は悪くなかった。“自称”ですけど(笑)。私も足は遅くなかったんですよ、まあこれも自称ですが(笑)。親の自分たちが一番驚いています。ホンマに普通の家なんで。(広陵高の同級生だった)宗山(塁)くん(楽天1位)のところみたいに、野球の英才教育をしたわけじゃない。ここまで成長したのは、本人の才能と努力のたまものだと思います」 宗山と切磋琢磨(せっさたくま)した広陵では、上級生との関係で苦労した様子もあったという。 「普段からあまり悩みとか愚痴を言ってこない。高校に入ったら寮だったので正月くらいしか会えなくて、電話で話すぐらいだった。でも、高校1年のときは先輩後輩の“アレ”がかなり厳しかったみたいで。相当しんどかった、と3年になってから教えてくれました」(泰明さん) 渡部が野球を始めたのは小学1年のとき。通っていた府中市立南小学校内で活動する「府中南少年野球クラブ」(現在は休部)へ、当時小学4年だった兄の海斗さん(25)と一緒に見学へ行き、その日のうちに入部した。 中学生になると「府中野球クラブ」(現在は休部)に入部。当時ヘッドコーチだった山戸康則さん(64)はこう振り返る。 「小学生の頃から『スーパー小学3年生がいる』と話題でした。入ってきたら、やはり肩は強くてバッティングセンスも抜群。ただ、少し体が硬かったので、ストレッチを入念にすることは口酸っぱく言った記憶があります」 保育園児の頃は近所に住む伯父とキャッチボールをしていたというが、泰明さんは「私とはそんなにしていないと思う」と言ってこう続ける。 「技術的なことは何も分からないから、インターネットで打ち方や練習方法を検索しました。『こういう結果になった場合は、こういう練習をした方がいい』とあれば、それを試したり。小学3年生ごろから、市販の打撃ネットを自宅の庭に置いてトスバッティングの練習をしていました。金属バットなので、(音が響くため)夜に練習していると近所の人からよく怒られて、そのたびに謝って。ボールケース2箱くらい、100球くらいあったかな。中古で買って、お兄ちゃんと2人で打たせていました」 渡部が小学校低学年の頃までは営業マンとして土日も仕事に追われる日々だった泰明さん。子供の野球に付き添うため、土日に休みが取れる仕事に転職した。現在は警備会社で高速道路上の工事現場などを警備する仕事に就いている。 体づくりの面では栄養士の資格を持つ知枝さんがサポート。老人ホームで介護の仕事をしながら息子の胃袋を支えた。 「妻が栄養バランスの取れた食事を意識して作っていました。ただ、小中学生の頃はおかずばかり食べて、米を食べない子だったので、『食べんと大きくならんぞ』と言って食べさせることも。小学生の頃には、体が大きくなるように、(粉状の栄養機能食品である)『セノビック』を飲ませたり、中学生の頃は子供でも飲めるプロテインを調べて買いに行ったり。通販で購入することもありました。とにかく調べて調べて……うちは本当に普通の家庭なんです」(泰明さん) その“普通”の積み重ねが、アマ球界屈指の長距離砲としての才を引き出した。 ▽渡部聖弥(わたなべ・せいや) 2002年8月31日、広島県出身。府中市立南小1年のとき野球を始める。広陵高では2年のとき春のセンバツで甲子園出場。楽天1位指名の宗山塁(明治大)とは同級生で寮も同部屋だった。大商大では2年秋リーグで新記録となるシーズン5本塁打を記録。家族は両親と兄。兄は府中東高から福山大まで野球を続けた。177センチ、88キロ。右投げ右打ち。
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