元大関琴風の中山浩一さん(67)(元尾車親方、津市出身)は、11月の九州場所を制した大関琴桜関の初優勝を我が事のように喜んだ。「琴桜」は師匠(第53代横綱)のしこ名であり、その孫が令和に引き継いだ。祖父と戯れる幼い頃の大関の姿がよみがえり、NHKの正面解説席で胸が熱くなったという。(三木修司) 【写真】これは貴重!…後援会主催の野球大会で打席に立つ元大関琴風の中山浩一さん
「後半戦は鬼になるんだ」とハッパ
場所前、中山さんは福岡市東区の佐渡ヶ嶽部屋宿舎を訪ねて朝稽古を見学した後、琴桜関とちゃんこを囲んだ。優勝する力を備えながら、賜杯になかなか届かない大関に、「お前は気持ちが優しすぎる。後半戦だよ。後半戦は鬼になっていくんだよ」と、ハッパをかけたそうだ。
その琴桜関に変化を感じたのは終盤戦だった。最後の塩を手にした大関がカッと目を見開く。取組前の最後のルーチンだが、「にらめっこでこっちがプッと噴き出すような『怖い顔』に、今場所は彼の内面が自然に表れていた。腹が据わってきたのかな」。
幼少期から知る中山さんにとっては、大関5場所目の27歳が、ひと皮むけたように感じたという。
琴桜将傑
ことざくら・まさかつ 1997年、千葉県松戸市生まれ。2015年11月初土俵、20年3月新入幕、24年初場所後に大関昇進。父は師匠の佐渡ヶ嶽親方(元関脇琴ノ若)、祖父は元横綱琴桜。「琴桜」として51年ぶりの優勝を飾る。1メートル89、178キロ。得意は右四つ、寄り。
本人が気づかなかった初優勝
自身にも忘れられない日がある。1981年9月の秋場所14日目。関脇の琴風が2敗で優勝争いの先頭に立ち、星一つの差で北の湖と播竜山(ばんりゅうやま)が追うという展開でその日を迎えた。先に佐田の海を退けた琴風は勝ち残りで土俵下に控える。続く播竜山が若乃花に敗れて圏外となり、北の湖も朝汐の寄りに屈して土俵下に転がり落ちた。千秋楽を残して2差がつき、琴風の初優勝は決まった。
だが、本人は優勝に気づかなかった。2日目に早々と土が付き、13日目には北の湖に吹っ飛ばされた。どのみち優勝は北の湖だと思い込み、自身は「白星を一つでも多く重ねる」ことで頭がいっぱい。星勘定をする余裕はなかった。
審判席にいた佐渡ヶ嶽部屋の秀ノ山親方(元関脇長谷川)が、土俵下に落ちてきた北の湖と重ね餅になった。親方は起き上がる際、隣に控えていた琴風の太ももを指先でゴリッとかき、「おめでとう」とつぶやいた。それでも半信半疑で花道を下がると、付け人の琴椿(現白玉親方)がおいおい泣いていた。「俺、優勝したのかって聞くと、言葉にならない声でうなずいた」。ようやく実感したという。
「辛抱と努力」でかなえたダブルの夢
実はこの場所、琴風には大関昇進という、もう一つの夢がかかっていた。当時の番付表を見ると横綱は3人で大関不在。番付に大関は欠かせず、横綱が「横綱大関」として代役を務める特殊な状態だ。琴風と朝汐の両関脇にとっては大きなチャンスでもあった。
12日目に11勝を挙げると新聞各紙は、「琴風、大関当確」と打った。「白星を一つでも多く……」という言葉は、「当確」を決定に持ち込みたいという一心でもあった。場所後の番付編成会議では満場一致での昇進が決まった。若い衆に肩車された琴風は、ひと皮むけた雄々しさがあった。
78年11月の左膝の大けがからほぼ3年。辛抱と努力の末、幕内優勝と大関昇進という夢をダブルでかなえた中山さんは、生涯成績が記された星取表を手に「表だけを見ていると、奇跡だよね」とつぶやいた。
「橋がなければ 架ければいい!」
引退して尾車部屋の師匠となった親方時代に、母校の津市立高茶屋小学校に贈ったメッセージが、現在も学校のホームページで見ることができる。
川がある。橋がない。船がない。そこであきらめたら終わり……。 橋がなければ 架ければいい! 船がなければ 作ればいい! どちらもだめなら 泳いで渡れ!
私の大好きな言葉です……。決意のあるところに道はできるのです。共に、夢に向かって一歩一歩前進していきましょう! 尾車浩一
琴風豪規
ことかぜ・こうき 1957年、津市栄町生まれ。中学2年の71年4月、元横綱琴桜(当時大関)に弟子入りし、同年7月、佐渡ヶ嶽部屋から初土俵を踏む。1メートル84、173キロ。大関在位は22場所、優勝2度。
Advertisement
Advertisement



Advertisement
Advertisement






Advertisement
Advertisement











Advertisement




















Advertisement